2012年2月 9日 (木)

大切なお知らせ

こんにちは~happy01

スィーツバイブルのブログをお読み下さっている皆様、心から感謝致します。

実はこの度、スィーツバイブルのブログを引っ越すこととしました。

 

 

こちらです。

 

 

スィーツバイブル

上の「スィーツバイブル」の文字をクリックしてください。

新しいブログにジャンプします。

 

 

これまでお越し下さった皆様のことを思うと心苦しいのですが、新しいブログ、よろしくお願い致します。

尚、これまでの記事は全部新しいブログに引っ越しました。

コメントもです。

 

 

ご迷惑おかけしますが、今後ともスィーツバイブルを宜しくお願い致します。

 

 

祝福を祈ります。

キリストの愛を込めて。。。。clover

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2012年2月 4日 (土)

聖書に対する姿勢

こんにちは~happy01

今日もスィーツな聖書のみことばをご一緒に味わい楽しみましょうheart04

今日の聖書箇所はローマの信徒への手紙917-18節ですshine

 

 

9:17 聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。

9:18 このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。

 

前回までの話で、神様の選びは憐れみによるのだということをご一緒に学びました。

ローマ9章15節でも「神はモーセに『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ』と言っておられます」と書かれています。

神様はご自身の主権により、イスラエルの民を憐れみ選ばれ、そして本来はその選びとは関係のない筈であった私たち異邦人をも選んでくださったのです。

 

そうですよね、ご自身のこれまでの歩みを考えてみても、イエス様とは遠い世界で生きていて、全て自分の考え、判断、或いはご両親や学校の先生、職場の上司、同僚、お友達のアドバイスや判断などで行動し、決断していたことと思います。

罪にまみれた中での判断ですから、義とはほど遠い世界です。

 

そんな私たちが不思議な方法で、導きでイエス様の十字架と復活の福音を知り、そして受け入れ、罪赦され晴れてクリスチャンとなりました。これは決して偶然ではありません。「たまたま」でもありません。

私たちが生まれる前から神様の一方的な憐れみにより私たちを選び分けてくださったからなのです。

これこそ「恵み」ですね。

 

さて、前回の学びはこうやって神様の憐れみによって選ばれたということを学びました。今日はその逆、つまり、人をかたくなにもされるということについて学ぶこととします。

それでは早速みことばを味わうこととしましょう。まずは17節をご覧下さい。

 

☆★☆★☆★☆★☆

聖書はファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。(17)

☆★☆★☆★☆★☆

 

ここに出て来る「ファラオ」とはパロのことです。新改訳聖書も口語訳聖書も「パロ」と訳していますので、新共同訳聖書のみことばを載せる時は「ファラオ」と書きますが、それ以外の時は「パロ」で統一することとします。

 

さて、17節のみことばをご覧下さい。パウロはパロについて神様が語られたみことばとして、出エジプト記9章16節を引用されました。そこにはこう書かれています。

「しかしわたしは、あなたにわたしの力を示してわたしの名を全地に語り告げさせるため、あなたを生かしておいた。」(出エジプト9:16)

 

これは神様がパロについて語られているみことばです。

神様はご自身の力を示し、ご自身の名を全世界に語り告げさせるためにパロを生かしておかれたのです。

 

ところが、ローマ9章17節にもう一度戻ってください。パウロはおかしな書き方を17節でしています。

通常ここは、「神はパロについて、・・・ と告げられた」と書くべきですよね。だって語られているのは神様です。しかし「神」という言葉をパウロは出さず、「聖書は書いてある」と語っているのです。

 

パウロ書簡は難しいというのは、こういう細かいところに意味があるということかもしれませんね。


パウロはあえてここで「聖書はそう書いてある」と語っているのです。

 

何故でしょう?

それは「聖書」、当時は巻物でトーラーと言われていましたが、ユダヤ人にとってトーラーは特別な物だったのです。

聖書に対する忠誠度がもの凄く高く、「聖書にこう書いてある」とラビに言われたら、二つ返事でアーメンです。自分が理解出来るか出来ないかは二の次です。

聖書が書かれていることは100%真理なのです。

だからパウロはここでそうとうローマの教会にいたユダヤ人信者を意識していたことがわかります。

 

ユダヤ人にとって聖書は特別で、聖書を読む時、なんと聖書、つまり巻物にキスをするのです。

そして特別な思いで、気持ちを整え、読んだのです。それだけ聖書は特別な書物なのです。

 

私たちはどうでしょうか。

ユダヤ人の聖書の接し方を見ると本当に考えさせられますね。

聖書は神様からのラブレターだとよく言われます。

この聖書は神様の私たちへの思い、そしてこの罪にまみれた人類を救い出す壮大な計画が記されているのです。

これから将来のこともです。

そして何よりもどれだけ神様が私たちを愛しておられるのか、その主の御思いが凝縮された書、これが聖書です。

だからもし一週間に一回、僅か1時間だけ開くという状態でしたら、それはもったいなさすぎです。

ぜひみことばを愛し、聖書のみことばを最愛な人からのラブレターだという思いで味わうことです。

私たちの生き方が、私たちの行動が、私たちの心の中がその時変わっていきます。主に期待しながらみことばを味わいましょう!

 

神様が私たちに今、どんなことをお語りになるのだろうという思いで読むことです。

そして私たちの内にいます聖霊様に教えていただくのです。

聖霊は真理の御霊なるお方です。

このお方は聖書の真理を私たちに教えてくださいます。

今まで聖書を読んでも無味乾燥だと感じていたのに、ある時、、ある箇所を味わっていると急にその意味がわかり、どんなに神様が私たちを愛していてくださったのかがわかったということが多々あります。

それはみな、聖霊様が私たちの内で神様を示してくださったからです。

 

聖霊に心開き、聖霊に頼りながら、聖書をまるで最愛の恋人からのラブレターのように扱うのです。


すると聖霊が私たちの内に豊かに語って下さり、これまで閉ざされていた霊のまぶたを開いてくださいます。

主に期待しましょう、ハレルヤ!

 

祝福を祈ります。キリストの愛を込めて。。。

でわでわ~confident

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2012年1月29日 (日)

一方的な憐れみによる選び

こんにちはhappy01shine

今日もスィーツな聖書のみことばをご一緒に味わい楽しみましょう。

今日の聖書箇所は前回の分の箇所も含めて、ローマの信徒への手紙914-16節です。

 

9:14 では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。

9:15 神はモーセに、/「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。

9:16 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。

 

 

パウロはこの14節で「では、どういうことになるのか」と質問をしています。

こういう質問をされると、「何が?」って答えたくなりますよね。

聖書を読んでいると、特にパウロ書簡を読んでいると、突然質問されたりすることがあります。

そういう時は前後関係を見る、つまりその文脈から判断することでわかってくるのです。

 

ではこの質問って何でしょう?

この質問の次に「神に不義があるのか?」ってパウロは聞いていますよね。

またまた新たな質問が出て来たのですが、この質問は前回までの学び、つまり13節までの箇所を踏まえて、読者がおそらくこういう質問をしてくるだろうと予想して、それに対して答えているのです。

 

 パウロは13節までのところでアブラハムの祝福の後継者の選びについて語りました。

アブラハムの後継者候補として長男のイシュマエル、そして次男のヤコブ、しかしこの2人腹違いの兄弟であり、長男はアブラハムがエジプトの奴隷女と結ばれて出来た子供、そして次男のヤコブは正妻のサラと結ばれた出来た子供です。

神様は正妻の子であるヤコブを選ばれました。

 

パウロはアブラハムの祝福の継承者選びについて書いた後、おそらく読者の中に、イシュマエルもヤコブも同じアブラハムの子であり、本人には何の問題もないはず。

それなのに正妻であるという理由でヤコブを選んだ。

神様もそうやって人を見るのだという思いを持った人がいるだろうと予想して、次に息子イサクの息子からの継承者選びについてを書いたのです。

 

 

イサクの息子はエサウとヤコブ。双子です。

こうなると立場だとか血筋だとか、そういうことは関係なくなります。

2人とも同じ親から生まれた子で、血筋も全く同じ、条件も同じです。

先に妻リベカから出て来たのがエサウだったのでエサウが長男となりました。

 

 普通の常識で考えれば、エサウが継承者となる筈です。そうですよね、長男ですから。

日本でも戦後、余り言われなくなりましたが、一昔前までは長男が後を継ぐのが常識でした。

今でもそういう家庭はあると思います。しかしこの時代の長男の特権はそれ以上のことでした。

 

しかし神様は長男エサウを退け、次男ヤコブをアブラハムの祝福の継承者として選んだのです。

 

そして14節の質問に繋がってくるのです。

パウロは「では、どういうことになるのか。神に不義があるのか?」と質問しています。

 

パウロはこの時点で、おそらく読者の中にエサウが可哀想だという思いを持った人が、あるいはイシュマエルが可哀想だと思った人がいるだろうと予想していました。

そういう人にとっては、神様は愛がない、なんて自己中心だって思われたのかもしれませんね。

だからパウロはその予想を見越して「神に不義があるのか?」と問いかけたのです。

 

パウロは「神に不義があるのか」という質問に対して、「決してそうではない」と答えています。

この新共同訳聖書の訳、これでは弱すぎます。

こんな生ぬるい表現ではありません。

新改訳聖書はここを「絶対にそんなことはありません」と語っています。

これも敬語を使っているのでパウロのこのときの状態が表現しきれていませんが、こちらの方が近いと思います。

ここは敬語を使うべきではありません。

 

この「決してそうではない」「絶対にそんなことはありません」という言葉、原語であるギリシャ語では「メイ・ゲノイト」という言葉で、これは最上級の否定語、ギリシャ語で一番強い否定形を使うときの言葉なのです。

ですから、ここはおそらく「絶対にそうではない!!!」と声を振るわせ荒げながら言っているのでしょう。

パウロはそれ程に熱を込めてこのことを否定したのです。

 

どうしてでしょうか?

それはパウロにとって絶対に譲れないところ、妥協出来ないところだったからです。

つまり神様については決して妥協出来ない、歪めたりすることが出来ないというパウロの信仰から出てきているのです。

私たちもまた同じです。聖書に書かれていること、神様について、神様が悲しまれることについては絶対に妥協しないことが大切です。

 

パウロがこれ程に激しながら否定した理由、それが15節以降の内容です。

神はモーセに、「わたしは自分が憐れもうと思うものを憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。

従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。

ロマ9:15-16

 

 パウロは神様がモーセに語られたことが書かれている旧約聖書の箇所である出エジプト記33章19節をもってその理由を語っています。


主は言われた。

「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」

 

「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」

この箇所は神様がモーセにこう語られた時、どういう状況だったのかがわからないと理解することは非常に難しいと思います。

 

この神様の発言は、モーセがとんでもないことを願ったことに対する神様の回答なのです。

なんとモーセはその時「どうか、あなたの栄光をお示し下さい」(出エジ33:18)と神様にお願いしたのです。

つまり、「神様の栄光を見せてください」ってお願いしたのです。

それは私たちが「主よ、栄光を拝させてください」と祈ることと全く次元が違うことで、モーセがこの時神様にお願いしたのは、神様ご自身を見たいということと同じ事だったのです。

 

神様を見るということは、死ぬことと同じです。

私たち人間が神様の栄光を見ることは出来ません。

目に入った瞬間に死んでしまいます。

それ程に聖く威厳に満ちておられるお方だからです。

 

しかし神様はそのモーセの願いに対して「わたしは、恵もうと思う者を恵み、憐れもうと思う者を憐れむ」とおっしゃいました。

つまり、「モーセ、わたしはお前を恵み、お前を憐れむよ。わたしの権威によってそれをするのだ」と語られ、神様の栄光を見ないようにモーセをご自身の御手で岩の裂け目に入れ、主が通り過ぎるまでご自身の御手で覆い、通り過ぎた後で御手をモーセから離し、その後ろ姿、つまり残映だけを見せたのです。

こうやって神様の主権により、モーセの願いに応えられたのです。

 

ローマ9章16節でパウロはこう語っています。

従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるのです。

 

全ては神様の憐れみによるのです。

とんでもないことを要求したモーセに対して、愛を持ってその願いに応えられたのも、神様の一方的な憐れみによってです。

イサクが選ばれたのも、ヤコブが選ばれたのもそうです。

神様の主権によるのであり、ご自身の御心のままにそうされたのです。

人間はその神様の主権に対して口を挟む余地はないのです。

 

私たちクリスチャンも同じです。

モーセの要求に対して愛を持って、ご自身の御手で岩の裂け目に隠されてシャカイナグローリー、主の栄光の残映だけを見せられた神様は、私たちに対しても最大級の愛を持って答えて下さっています。

私たちはそれ程に愛されているのです。

 

今、辛い状況の中におられるかもしれません。

また、悲しみの中にあるのかもしれません。

逆に喜びの中にあるのかもしれませんね。

私たちはその状況に対して批判したり、嘆いたりするのではなく、その状況の中で主を礼拝することです。

主はご自身の主権により、私たちを憐れみ、私たちを愛し、そこがたとえ苦しみの只中であったとしても、その状況の中でご自身の平和で満たし、愛で満たしてくださるからです。

 

私たちは二つの選択があると思います。

一つは状況を妬み恨むこと、もう一つはその状況の中で主を呼び求め、主を礼拝することです。

そして後は主の主権、主の導きにお任せするのです。

そこがたとえ荒野であっても、その荒野の状況の中にあって、そこが緑豊かな牧場へと変わります。

 

主の豊かな慰めと恵みがありますように・・・

 

祝福を祈ります、キリストの愛を込めて。。。clover

 

 でわでわ~paper

 

 

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2012年1月21日 (土)

神様の選びの確かさ

こんにちは~happy01

   
今日もスィーツな聖書のみことばをご一緒に味わい楽しみましょうheart04

   
今日の聖書箇所は前回の分の箇所も含めて、ローマの信徒への手紙910-13節ですshine

 

 

9:10 それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。

9:11 -12その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。
  

 9:13 「わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。

 

 

今、私たちは神様が人を選ぶとき、どのような方法で選ばれるのかをみことばを通してご一緒に学んでいます。

アダムが罪を犯して以来、人類は罪の中に入れられ、罪の奴隷状態になっています。

人は産まれながら、先祖代々罪を受け継ぎ、罪人としてこの地に誕生し、成長と共にその罪を表現するようになり、大人になります。

これが人間の姿です。そしてその最後は裁きと滅びです。

 

神様は滅ぶしか無い私たち人間を尚も愛され、救済計画を立てられました。

その人間の救済の方法としてアブラハムという一人の人間を選ばれました。

しかしアブラハムが立派だとか、特別な賜物があるとか、リーダーシップに長けているとか、カリスマ的であるとか、決してそういうことではありません。

彼はごく普通の人であり、二度にわたって外国の王様に殺されることを恐れて自分の妻にアブラハムのことを兄だと言わせ、神様よりも人の目を気にし、弱さを抱えていました。

 

これは私たち自身の姿でもあると思います。

神様はそんなアブラハムを人類救済計画のために選び出し、アブラハムを通して祝福をもたらすと契約を結ばれたのです。

 

そして神様はその祝福の継承者として、アブラハムの二人の息子である長男のエサウと次男のイサクから一人をお選びになりました。

イシュマエルとイサク、確かに同じアブラハムの息子ですが、母親が違いました。イシュマエルはエジプト人の奴隷女ハガルとアブラハムが関係を結び、産まれた息子で、最初に産まれた子供です。

そして弟イサクは正妻であるサラとアブラハムが関係を結び、産まれた子供です。

神様はこの二人の内、正妻サラから産まれたイサクを祝福の継承者として選ばれました。それもまた、神様の主権でのことです。

 

さて、ここで一つの疑問が沸きます。

それはイシュマエルには何の罪はありません。

正妻の子どもであるかどうかは本人とは全く関係がありませんし、もともとサラがアブラハムにハガルを通して子供を得るようにとハガルと関係を結ばせたのです。

でも神様の選びは正妻であるサラでした。何か不公平な気持ちを持たれるかもしれません。

 

そこで今日学ぶ箇所に入るのですが、この継承者イサクの次の継承者は双子からの選びとなります。

つまり同じ条件の下での神様の選びなのです。

 

それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。

その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。

それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。(ロマ9:10-12)

 

今度は条件が全く同じです。

イサクの妻リベカは不妊でした。

赤ちゃんに恵まれなかったので、イサクが妻のために祈ったのですが、主がその祈りを聞き入れられ、妻リベカは身ごもりました。

ところがリベカの体内で子供たちが押し合うので一体どうなるのだろうと恐れ、主の御心を尋ねたところ、主は彼女に言われました。

 

二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。

一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。(創世記25:23)

 

神様は2人が産まれる前にリベカに、これから産まれてくる赤ちゃんは双子だと言うこと、そして「兄が弟に仕える」、つまり人類救済計画の継承者は弟だと宣言されたのです。

 

神様は血筋だとか家柄で継承者を選びませんでした。

また人格でも選びません。

なぜなら、弟として産まれてきたヤコブもまた問題を持ち、弱さを抱えて成長した人物だからです。

つまり、神様は産まれる前から人を選ばれているのです。

どうやってか、神様の主権によってです。

 

パウロはそのことをマラキ書1章2-3節のみことばをもって裏付けました。


「わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。(ロマ9:13)

 

このみことば、とても難解な箇所です。

この箇所を素直に読むと、「神様はヤコブは愛されたけど、エサウは憎んだのだ」と読めますよね。

神様は私たちに憎むって言われているのに、ご自身はエサウを憎むっておかしいって。。。。

 

でもこれは私たち日本人が今の時代の文化のフィルターを通して読むからわからくなってしまうのです。

これは当時のヘブライ人特有の言い回しで、「憎む」とか感情で「もうこんな人大嫌い!」という意味ではなく、理性的な意味なのです。

つまり、ここでいう「憎む」とは恨みとかそういう感情的な怒り的要素の意味ではなく、神様の選びから外れたという意味なのです。パウロはそれをマラキ書のみことばを持って裏付けたのです。

 

神様はご自身の主権を持って2人が産まれる前から弟イサクを祝福の継承者として選ばれました。

私たちも同じです。神様は私たちが産まれる前から、ご自身の主権を持って私たちを選ばれたのです。

だから今クリスチャンとして生かされているのです。

 

神様の選びは確かであり、私たちは産まれる遙か前から神様に知られています。

エレミヤ書1章5節にこうあります。


わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。(エレミヤ1:5a)


これはエレミヤの預言者としての選びなのですが、私たちも同じです。私たちが救われたのは偶然ではありません。

神様が母親の胎内に宿る前から私たちのことを知っておられ、特別な計画を立てておられ、その通りに今あるのです。

ですから、私たちはそのことを覚え、主の御計画の確かさに身を委ね、信頼して歩むことです。

そして救われたこと、選ばれている恵みを感謝し、この1年、主に依り頼みながら歩むお互いでありましょう。

祝福を祈ります。

キリストの愛を込めて。。。


でわでわ~confidentpaper

 

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