一方的な憐れみによる選び
こんにちは![]()
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今日もスィーツな聖書のみことばをご一緒に味わい楽しみましょう。
今日の聖書箇所は前回の分の箇所も含めて、ローマの信徒への手紙9章14-16節です。
9:14 では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。
9:15 神はモーセに、/「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。
9:16 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。
パウロはこの14節で「では、どういうことになるのか」と質問をしています。
こういう質問をされると、「何が?」って答えたくなりますよね。
聖書を読んでいると、特にパウロ書簡を読んでいると、突然質問されたりすることがあります。
そういう時は前後関係を見る、つまりその文脈から判断することでわかってくるのです。
ではこの質問って何でしょう?
この質問の次に「神に不義があるのか?」ってパウロは聞いていますよね。
またまた新たな質問が出て来たのですが、この質問は前回までの学び、つまり13節までの箇所を踏まえて、読者がおそらくこういう質問をしてくるだろうと予想して、それに対して答えているのです。
アブラハムの後継者候補として長男のイシュマエル、そして次男のヤコブ、しかしこの2人腹違いの兄弟であり、長男はアブラハムがエジプトの奴隷女と結ばれて出来た子供、そして次男のヤコブは正妻のサラと結ばれた出来た子供です。
神様は正妻の子であるヤコブを選ばれました。
パウロはアブラハムの祝福の継承者選びについて書いた後、おそらく読者の中に、イシュマエルもヤコブも同じアブラハムの子であり、本人には何の問題もないはず。
それなのに正妻であるという理由でヤコブを選んだ。
神様もそうやって人を見るのだという思いを持った人がいるだろうと予想して、次に息子イサクの息子からの継承者選びについてを書いたのです。
こうなると立場だとか血筋だとか、そういうことは関係なくなります。
2人とも同じ親から生まれた子で、血筋も全く同じ、条件も同じです。
先に妻リベカから出て来たのがエサウだったのでエサウが長男となりました。
日本でも戦後、余り言われなくなりましたが、一昔前までは長男が後を継ぐのが常識でした。
今でもそういう家庭はあると思います。しかしこの時代の長男の特権はそれ以上のことでした。
しかし神様は長男エサウを退け、次男ヤコブをアブラハムの祝福の継承者として選んだのです。
そして14節の質問に繋がってくるのです。
パウロは「では、どういうことになるのか。神に不義があるのか?」と質問しています。
パウロはこの時点で、おそらく読者の中にエサウが可哀想だという思いを持った人が、あるいはイシュマエルが可哀想だと思った人がいるだろうと予想していました。
そういう人にとっては、神様は愛がない、なんて自己中心だって思われたのかもしれませんね。
だからパウロはその予想を見越して「神に不義があるのか?」と問いかけたのです。
パウロは「神に不義があるのか」という質問に対して、「決してそうではない」と答えています。
この新共同訳聖書の訳、これでは弱すぎます。
こんな生ぬるい表現ではありません。
新改訳聖書はここを「絶対にそんなことはありません」と語っています。
これも敬語を使っているのでパウロのこのときの状態が表現しきれていませんが、こちらの方が近いと思います。
ここは敬語を使うべきではありません。
この「決してそうではない」「絶対にそんなことはありません」という言葉、原語であるギリシャ語では「メイ・ゲノイト」という言葉で、これは最上級の否定語、ギリシャ語で一番強い否定形を使うときの言葉なのです。
ですから、ここはおそらく「絶対にそうではない!!!」と声を振るわせ荒げながら言っているのでしょう。
パウロはそれ程に熱を込めてこのことを否定したのです。
どうしてでしょうか?
それはパウロにとって絶対に譲れないところ、妥協出来ないところだったからです。
つまり神様については決して妥協出来ない、歪めたりすることが出来ないというパウロの信仰から出てきているのです。
私たちもまた同じです。聖書に書かれていること、神様について、神様が悲しまれることについては絶対に妥協しないことが大切です。
パウロがこれ程に激しながら否定した理由、それが15節以降の内容です。
神はモーセに、「わたしは自分が憐れもうと思うものを憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。
従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。
ロマ9:15-16
主は言われた。
「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ。」
「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」
この箇所は神様がモーセにこう語られた時、どういう状況だったのかがわからないと理解することは非常に難しいと思います。
この神様の発言は、モーセがとんでもないことを願ったことに対する神様の回答なのです。
なんとモーセはその時「どうか、あなたの栄光をお示し下さい」(出エジ33:18)と神様にお願いしたのです。
つまり、「神様の栄光を見せてください」ってお願いしたのです。
それは私たちが「主よ、栄光を拝させてください」と祈ることと全く次元が違うことで、モーセがこの時神様にお願いしたのは、神様ご自身を見たいということと同じ事だったのです。
神様を見るということは、死ぬことと同じです。
私たち人間が神様の栄光を見ることは出来ません。
目に入った瞬間に死んでしまいます。
それ程に聖く威厳に満ちておられるお方だからです。
しかし神様はそのモーセの願いに対して「わたしは、恵もうと思う者を恵み、憐れもうと思う者を憐れむ」とおっしゃいました。
つまり、「モーセ、わたしはお前を恵み、お前を憐れむよ。わたしの権威によってそれをするのだ」と語られ、神様の栄光を見ないようにモーセをご自身の御手で岩の裂け目に入れ、主が通り過ぎるまでご自身の御手で覆い、通り過ぎた後で御手をモーセから離し、その後ろ姿、つまり残映だけを見せたのです。
こうやって神様の主権により、モーセの願いに応えられたのです。
ローマ9章16節でパウロはこう語っています。
従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるのです。
全ては神様の憐れみによるのです。
とんでもないことを要求したモーセに対して、愛を持ってその願いに応えられたのも、神様の一方的な憐れみによってです。
イサクが選ばれたのも、ヤコブが選ばれたのもそうです。
神様の主権によるのであり、ご自身の御心のままにそうされたのです。
人間はその神様の主権に対して口を挟む余地はないのです。
私たちクリスチャンも同じです。
モーセの要求に対して愛を持って、ご自身の御手で岩の裂け目に隠されてシャカイナグローリー、主の栄光の残映だけを見せられた神様は、私たちに対しても最大級の愛を持って答えて下さっています。
私たちはそれ程に愛されているのです。
今、辛い状況の中におられるかもしれません。
また、悲しみの中にあるのかもしれません。
逆に喜びの中にあるのかもしれませんね。
私たちはその状況に対して批判したり、嘆いたりするのではなく、その状況の中で主を礼拝することです。
主はご自身の主権により、私たちを憐れみ、私たちを愛し、そこがたとえ苦しみの只中であったとしても、その状況の中でご自身の平和で満たし、愛で満たしてくださるからです。
私たちは二つの選択があると思います。
一つは状況を妬み恨むこと、もう一つはその状況の中で主を呼び求め、主を礼拝することです。
そして後は主の主権、主の導きにお任せするのです。
そこがたとえ荒野であっても、その荒野の状況の中にあって、そこが緑豊かな牧場へと変わります。
主の豊かな慰めと恵みがありますように・・・
祝福を祈ります、キリストの愛を込めて。。。![]()
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