2009年7月26日 (日)

新しくされた自分

こんにちは~happy01

今日は「新しくされた自分」というタイトルで、ご一緒に学ぶこととします。

  
さて、実は今学んでいるシリーズ「キリストにある自由を楽しもう!」ですが、この学びは、ニール・アンダーソンの『キリストにある自由をめざして』という本を参考とし、それに示されたことを分かち合わせて頂いています。

実はこの『キリストにある自由をめざして』ですが、とても残念なのですが、既に絶版となっていて、販売されていません。

もしかしたら、古本屋さんにあるかもしれませんね。

もしお持ちでしたら、じっくりと読んでみたらいいと思います。

  

さて、今回の学びですが、私たちの本当の自己というか自分は何かということにフォーカスを当てることとします。

  
コロサイ信徒への手紙3章10-11節にこのように書かれています。

(私たちは)古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。

そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。

キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。

コロサイ3:9b-11

※「(私たちは)」は、著者の追記です。

 
私たちは普通、自己紹介をするときって、仕事や学校など社会的な立場や自分はどういう人かということなどを話しますよね。

でもパウロは違います。

彼はこれら、社会的な立場だとか、自分が何人だとか、そういうことから一切解放されています。

パウロは言っています。

キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。

パウロは、イエス様と出会う前の律法主義やユダヤ人であることのプライドとか、そういうものは、もはや古い自分であり、それらは脱ぎ捨てたと言っています。

そして今、彼の内におられるキリストが全てだと、自分についてを言っているのです。

私たちはだれ?って聞かれたら、どう答えますか?

神の子供とされた者であり、私たちの内にキリストがおられ、同時にキリストの内にいる存在。    

これがクリスチャンの実態なんです。 

  
クリスチャンは罪の赦しを与えられ、政令を受け、新しい本姓を身につけ、天国に行く者とされてた者たちなのです。

ぼくたちはみんなそうなんです。

救われてからドレくらい経ったかとか、そういうことは一切関係ないですよ。

クリスチャンとは、キリストの者なんですからね。

  
第一ペテロ2章9-10節にこのように書かれています。

しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神の者となった民です。

それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は哀れみを受けている」のです。

  
これがクリスチャンです。

今これを読んでいるあなたもそうなんですよ。

  
ところが、そう言われてもピンと来ないという人もおられるかもしれませんね。

「知識ではわかった。

でも自分の姿とか、行動とかみると、とてもそうは言えないし、「そうだ!」って思えるときもあるけど、調子がわるい時とか、ピンと来ないし、感情がついていかない」

  
これ、感情に頼るからそうなっちゃうんです。

感情は信頼できませんよ。

人の感情は移ろいやすいのです。

  
感情を見るのではなく、たとえピンと来なくても、聖書にそう書いてあるからそうだって受け入れることです。

これはあなたが感じようが感じまいが、神様から見たあなたや私なんです。

  
第二コリント5章17節にこう書いてあります。

だから、キリストと結ばれている人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

  
私たちキリストと結ばれている者はだれでも、新しく創造された者たちなんです。

今までの古い自分は、キリストと共に十字架で死んだのです。

今、私たちは全く新しい人とされているのです。

  
この新しい自己を受け入れるとき、聖霊が私たちの内側を自由へと導いてくださいます。

感情を見ないで、霊的現実を受け入れることです。

単純に。

  
祝福を祈ります、キリストの愛を込めて。。。

  
ではではconfidentpaper

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2009年7月12日 (日)

人の霊は死んでいる

こんにちは~happy01

第二回目です。

今回は「人の霊は死んでいる」っていうタイトルで、ご一緒に学ぼうと思います。

旧約聖書の創世記2章7節は、このように書かれています。

主なる神は、土(アダマ)の塵(ちり)で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。

人はこうして生きる者となった。

これ、最初の人アダムがどのように創造されたのかです。

神様は土の塵で人を造られました。

この時点ではまだ命はなく、生きていません。

その土で出来た人の鼻の穴に、神様の命の息が吹き入れられました。

その時、人は生きる者となり、霊的な存在となったのです。

人は肉体があり、その中に神様の命の息、つまりご自身の霊が吹き入れられました。

そのとき、魂が出来たのです。

  
この霊と魂と体、これらは調和していました。

  
罪を全く知らず、神様と一つに結び合わされていて、日々神様との関係を楽しんでいました。

神様は最初、アダムを造り、アダムの助け手として女を、アダムの肋骨から造られました。

二人とも裸だったのですが、隠すこともせず、恥ずかしさも全くありません。

これが罪の無い状態でした。

二人とも霊的な存在であり、清い状態だったので、恥とかそういう概念がなかったのでしょう。

そこには罪が存在していません。

なので、二人が裸であっても全く気になることもなく、お互いに主の栄光を現し、輝かしていたのでしょう。

  
  
さて、創世記2章16-17節にはこのように書かれています。

主なる神は人に命じて言われた。

「園のすべての木から取って食べなさい。

ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。

食べると必ず死んでしまう。」

  
しかし、アダムと女は神様に逆らい、この善悪の知識の木の実を食べてしまいました。

  
神様はこの木からのものを食べたら必ず死んでしまうって言われました。

さて、アダムたちは死にましたか?

死んでないですよね。

その後も生き続きます。

では、何故神様はそのようなことを言われたのでしょう?

実は彼らは本当に死んだのです。

確かに肉体的には生きています。

しかし、彼らの内なる霊が死んだ状態になってしまい、神様から離れてしまったのです。

  
善悪の知識の木の実を食べたとき、彼らは自分を意識するようになります。

そしてお互いに裸であり、お互いの体の違いに気づきます。

そして恥ずかしくなり、自分たちの恥ずかしい部分をいちじくの葉で隠しました。

  
それまではお互いの体に全く意識がありませんでした。

彼らは神様しか目に入らず、自分に意識が入っていなかったのです。

それが善悪の知識の木の実を食べたとき、霊的に死んだ存在となり、神様から自分に目が移ったのです。

  
善悪の知識の木の実を食べていらい、神様を意識することから、自分、そして人を意識するように代わりました。

また、神様から離れたことにより、今まで神様の御心を直接聴き、それに応答し、神様を喜び楽しむ歩みをしていたのですが、それが、自分で考え、遣り繰りし、自分や人の考えや経験で行動するように変わりました。

これこそが罪なのです。

こうやって人は霊的に死んだのです。

そして子々孫々と罪は受け継ぎ、今日に至っています。

人は生まれながらにして罪人であり、神様から離れ、自分で遣り繰りし、私たちを創造されたお方の代わりに、神と言われる物や、時に人間を神に仕立てて礼拝するようになってしまいました。

これが罪人である人間です。

  
イエス様はそんな罪の世界に2000年前に来られました。

イエス様が来られたのは、その神様からの離反を解決するためなのです。

  
イエス様は言われました。

わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

ヨハネ10:10

  
イエス様は私たちが再び命、そう、神様の命を受けるため、しかも豊かに受けるために来られたのです。

つまりあのエデンの園での生活の回復のためにです。

  
ヨハネの手紙第一5章11-12節にはこのように書かれています。

その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えること、そして、この命が御子の内にあるということです。

御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。

  
永遠の命とは、イエス様ご自身であり、不老長寿の何かではありません。

この命、つまりイエス様の命が私たちに与えられているのです。

イエス様と結ばれている人の内には、イエス様の命があるのです。

  
そしてクリスチャンは、本来この罪の世界の中にあって、イエス様の命を喜び楽しむ存在なのです。

クリスチャンはイエス様と一つに結び合わされていて、イエスイエス様の命によって生かされている存在です。

  
新約聖書を読むとき、一貫してこの真理、つまりイエス様の命が私たちの内にあるという真理を言っています。

  
そして今、この瞬間も私たちの内にイエス様の命があるのです。

  
ぜひ、これからの学びを通して、このイエス様の命を見出し、本来の私たちの立場、存在を見出し、キリストにある自由を楽しむ人となるよう、心からお祈りします。

主に期待しつつ。。。。

今回はこの辺で。。。。

ではではconfidentpaper  

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はじめに(キリストにある自由を楽しもう!)

こんにちは~happy01

今日から不定期なんですが、暫く、「キリストにある自由を楽しもう」っていうタイトルで、ご一緒にイエス様から与えられている自由についてをご一緒に考え、学ぶこととします。

キリストにある自由、これ、口で言うのは簡単ですが、実際はどうかっていうと、う~~んっていう方が多いのかもしれませんね。

イエス様は私たちに自由を与えてくださるお方です。

イエス様は言われました。

あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。(ヨハネ8:32)

  

ぼくはこの自由についてわかってなかったなぁ~ってしみじみと思わされています。

クリスチャンになってから、このキリストにある自由を目指していました。

でも、形にこだわり、クリスチャンらしく歩もうとし、イエス様のためにって肩に力を入れていました。

でね、心がボロボロになっちゃったんです。

でも、それを認めることが出来ず、一生懸命でした。

  
そんな中、突然腰痛になりました。

全く動けなくなり、働くことも出来ない状態、動くのも大変というとこまで追いやられました。

  
そんな中、もう一度みことばを学び直し、そしてこの自由を得ることが出来たんです。

それはもう、嬉しくて嬉しくてheart02 

  
実はキリストにある自由って単純なんです。

全く難しくないんです。

ところがそれを難しく考えていました。

  
この自由をぜひぜひ一緒に味わうことが出来ればなぁ~って感じています。

  
今日から少しずつですが、ご一緒にイエス様にある自由を楽しみましょうshine

ではではconfidentpaper 

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