2008年7月12日 (土)

☆去られることの恵み☆

こんにちは~happy01

今日もスィーツな聖書のみことばをご一緒に味わい楽しみましょうheart04

今日の聖書箇所はヨハネによる福音書16章4節後半-11節ですshine

  

  
初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。

今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。

むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。

しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。

わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。

わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。

その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。

罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。

   
  

前回、イエス様がユダヤ人たちが弟子たちを迫害する預言をされたことを学びましたね。

今日はその続きです。

イエス様は言われました、

初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒だったからである。

今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。

むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。」(4節後半-6)

  

  
今、イエス様が十字架にかかられる直前に弟子たちにイエス様の御思いをすべて語られました。

しかしこれ、イエス様の3年半の公生涯の最後の最後まで語られませんでした。

イエス様がいよいよ十字架にかかられる前に当たってご自身の弟子訓練に時間をかけられ、その弟子訓練の時になってからイエス様はご自身が十字架に架かること、まもなくこの地を去って行くことを語られました。

それは弟子たちの心の状態を主はよくおわかりだからです。

これは私たちに対しても同じです。イエス様は私たちの全てを理解してくださっています。

私たちの心の状態も全てです。

パウロはこのように語っています。

あなたがたを襲った試練で、人間として絶えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
(一コリント10:13)

  
イエス様は私たちの全てをご存じで、その上で私たちを愛していてくださり、私たちの日々必要に応えてくださり、イエス様の似姿に変えて、義の道へと導いてくださっているの
です。

これが私たちの現在の状態なのです。

  

  
さてイエス様はこのように弟子たちにご自身の御思いを余すところなく話しましたが、弟子たちは理解出来ませんでした。

最初の頃は現実味が無いためか、イエス様にペトロは

主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます(ヨハネ13:37)

と言ったのですが、いざイエス様が去っていくことが現実的になると、もはや悲しみと恐れでイエス様にどこに行かれるのかを聞くことが出来ないでいるのです。

17節にはこうあります。

そこで、弟子たちのある者は互いに言った。

「『しばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」

また、言った。

「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」(ヨハネ16:17-18) 

   

弟子たちはもはや訳が分からなくなり、イエス様に聞くことすら怖くなってしまったのです。

   

   
さてそんな弟子たちにイエス様は言われました。

しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。

わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。

わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。

その方が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする。

罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世
の支配者が断罪されることである。(7-11)

  

  
イエス様が去るということは、そこにいた弟子たちにとっては悲しみで溢れていました。

しかし後のことを考えるとそれは恵みなのです。

それは弁護者である聖霊を私たちの内に送ってくださるからです。

それはイエス様が十字架の死と復活、そして天に上げられないと送られて来ないのです。

    

  
使徒言行録2章にはそれが実際に起こったことが書かれています。

ペンテコステの出来事です。

イエス様が去られた後、弟子たちが集まって祈っていると、突然激しい風が拭いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いたのです。

そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったのです。

すると一同が聖霊に満たされて、聖霊が導くままにいろいろな国の言葉の異言で語りだしたのです。

それ以降、弟子たちの行動が全く変わりました。

その時にペトロがそこで驚きあたふたした群衆に福音を語ったところ、なんと3000人もの人たちがイエス様を受け入れ、救われたのです。

これこそがイエス様が言われた弁護者なる聖霊の働きなのです。

  

  
イエス様は聖霊の性質について語っています。

聖霊は人々に罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにします。

つまり聖霊はまずその人の内にある罪、つまり天の父なる神様を捨てて自己中心の歩みをしていること、そしてイエス様の十字架を受け入れていない自分の罪を示されます。

そして「わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」、つまりイエス様が私たちのために十字架にかかられ、三日目に復活をされ、そして天にあげられたこの義を信じ受け入れるように導かれます。

そして裁きについて、「この世の支配者が断罪されること」、つまりイエス様の十字架と復活によって、この世の支配者であるサタンが敗北したことを示される、これが聖霊の働きです。

つまり人が救われるのは、人の説得でも努力でもなく、聖霊によるのです。

私たちが福音を語る時、聖霊がこのように罪について、義について、裁きについてを示され、心開き、福音を受け入れるように導かれるのです。

この聖霊が私たちの内にいるのです。

  

  
今日、イエス様を信じた私たちの内にはイエス様がおられます。

そして父なる神様もおられます。

そして聖霊もおられ、聖霊が今も私たちの内で罪、義、裁きを語り、キリストへキリストへと導かれているのです。

このように私たちクリスチャンはただの存在ではないのです。

父、子、聖霊なる神が私たちの内に住んでおられるのです。

今日、このお方に心開きませんか。

聖霊の語られる御声に耳を開きませんか?

今も聖霊は私たちに語っておられます。

祝福を祈ります。キリストの愛を込めて。。。。

 
ではではconfidentpaper

 

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2008年7月 5日 (土)

イエス様の愛に満ちた配慮

こんにちは~happy01

今日もスィーツな聖書のみことばをご一緒に味わい楽しみましょうheart04

今日の聖書箇所はヨハネによる福音書16章1 -4節ですshine

  

   

これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。

人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。

しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。

彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。

しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」

  

   
  
前回、この世の中でクリスチャンが生きるということがどういうことであるのかということを学びました。

今日の箇所はその続きです。

6章1-4節は、15章18節から続いているイエス様のお話しの続きです。

イエス様はご自身が十字架に架かられてこの世を去られた後、弟子たちはどうなるのか、そしてこの世の中でどう歩むべきなのかを語られました。

そしてイエス様は、確かにあなたがたを憎む人が出てくるが、それはご自身と父なる神様を憎んでいるのだと言われ、そういうあなたがたのために弁護者である真理の霊を送るという約束をされました。

それが前回の内容でしたね。

さて、今日の箇所でこのように言われました、

これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。(1)

  

   
弟子たちにとっては決して嬉しくはないことですよね。

でもその時に突然襲ってくるのではなく、事前にこうなることを語られたって、イエス様の大きな愛なのです。

私たちは聖書を通してイエス様が天に上げられた後、弟子たちがどうなったのかを知ることが出来ますが、弟子たちは大迫害を受けました。

でもその迫害の中でこのイエス様の言われたおことばが計り知れない支えとなり、慰めとなりました。

私たちもまた生きている中で苦しい事や辛いことが必ず襲ってきます。

またクリスチャンであることで誤解を受けたり、どうしても妥協できない一線があり、それによって攻撃を受けたりすることもあります。

弟子たちが迫害を受けた時にこのおことばが慰めとなったように、私たちもまた日々聖書のみことばを味わうことにより、そういう状況に追いやられた時にみことばをとおして、聖霊が私たちに優しく語られ、励まし弁護してくださいます。

そのためには日々、少しずつで良いですから、みことばを味わう習慣づけをすることをお勧めします。

  

  
さて、ではどのようなつまずく可能性のある出来事が起こるのでしょう。

イエス様は言われました、

人々はあなたがたを会堂から追放するであろう。

しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。

彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。

しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。(2-4)

  

  
弟子たちは確かに会堂から追放されましたね。

殺そうともしました。

ここにいた12弟子ではないですが、ステファノは石を投げられて殺されました。

使徒言行録を見るとよくわかります。

でも彼らは決して自分たちは悪いことをしているとは決して思っていません。

逆に神様のためだと思っています。

  

   
パウロもそうでしたね、彼はその時のことを振り返り、こう言っています、

実は私(パウロ)自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。

そして、それをエルサレムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。

また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです。(使徒26:9-11)

これ程のことをパウロはしたのですが、本人は神様のためだと考えていたのです。

神様のために熱心にイエス様の弟子たちを迫害したのですが、その結果、逆に神様を悲しませる結果となってしまったのです。

これが当時のファリサイ人や律法学者たちの実態です。

  

   
転じて私たちはどうでしょう。

私たちは時に伝道熱心であったり、人を引きつける何かを持っていたり、熱心に祈ったり奉仕をされたりする人を見ると、この人凄いなって思うことがあります。

でもそういう人たちは、実はイエス様との交わりが稀薄であったり、イエス様を味わい喜ぶということの体験が少ない人が案外多いのです。

熱心だけど、内側からの安心感や喜びや平安が無く逆に疲れている。

早い話が内面が空っぽです。

でも「伝道しなきゃ、サタンを打ち砕き、この日本をキリストへと奪回しなければ!

それが主の御心だから!」と自分に鞭を打って頑張っている人が多いのです。

  

   
またイエス様を受け入れていない人から攻撃を受けるケースがありますね。

例えば偶像礼拝に関することでです。

聖書は偶像礼拝を明確に禁じています。

それは夫婦間の不倫行為と同じことです。

配偶者が不倫をする、それを知ったならば、悲しみを通り越して痛みを感じますね。

心がグサグサになります。

私たちクリスチャンは昔の異人を神格化して崇拝しているのではありません。

人格を持たれ、私たちを創造され、私たちを命がけの愛で愛し続けてくださっています。

それなのに、それを無視して罪だらけの人間を神格化して礼拝したり、目に見える形のも
のを作り出してそれを崇拝したりすること、それは不倫行為です。

浮気は相手をグサグサにして引き裂きます。

それを父なる神様とイエス様に対してなしているのです。

それがわかると偶像礼拝に対して拒否反応が起こります。

でもそれを崇拝している人には私たちの主張は理解してもらえない場合が多いです。

その人たちは熱心です。

しかし、それは真理を知らない熱心さであり、真理に対して心を閉ざしているので、真理を受け入れることが出来ないでいます。

これが多くの場合です。

でも安心してください。

私たちを弁護してくださる聖霊が私たちの内側から慰め、励まし、必要な知恵を与えてくだ
さいます。

それに従うことです。

  

   
イエス様は言われました、

これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。

今、この時代においても同じです。

でも思い出させていただくためには、そのお方、イエス様との愛の関係を築く必要があります。

イエス様と一つに結び合わされていくことにより、絶妙なタイミングで主の御心を思い出させてくださるのです。

さあ、今がその時です。

今、主との関係を再構築し、日々キリストと一つにされていきましょう。

祝福を祈ります。
キリストの愛を込めて。。。。

  

ではではconfidentpaper
 

 

   

  

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2008年6月28日 (土)

弁護者聖霊の語りかけ

こんにちは~happy01

今日もスィーツな聖書のみことばをご一緒に味わい楽しみましょうheart04

今日の聖書箇所はヨハネによる福音書15章22 -27節ですshine

  

  

わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らには罪はなかったであろう。

だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。

わたしを憎む者はわたしの父をも憎んでいる。

だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。

だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。

しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。

わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。

あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

  

   

前回、この世の中で私たちクリスチャンが歩むとはどういうことかということをお話ししました。

今日はその続きです。

イエス様は言われました、

わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。

だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。(22)

  

   
一見すると厳しいなと感じるかもしれませんね。

確かに厳しいかもしれません。

でもこのおことばを何の脈略もなく、突然に語られたのではないのです。

イエス様はその前に何度となくご自身が神であること、そして父なる神様から遣わされて来られたのだということを語ってきました。

またそれに伴う徴を見せました。

病人が癒され、目の見えない人が見えるようになり、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、悪霊を追い出しました。

それを律法学者やファリサイ派の人たちは目撃しまたのです。

これは否定出来ない事実です。

しかも彼らは律法の専門家、旧約聖書学者です。

ですからイエス様が旧約聖書の預言の成就であることは、イエス様の行動を見ればわかった筈です。

しかし彼らはイエス様を受け入れませんでした。

しかも彼らはイエス様をサタン呼ばわりしたのです!

  

  
マタイによる福音書9章を見ると、イエス様が悪霊に取り憑かれて口の利けない人の悪霊を追い出し、その人から悪霊が出て行ったとたんに口が利けるようになったという出来事が書かれています(32-34)。

当時、悪霊を追い出す方法は、その人の内にいる悪霊の名前を聞いて追い出すという方法でした。

ですから口が利けない人の内にいる悪霊は追い出せません。

追い出せるのは神のみであると言われていたのです。

ところがイエス様はその口の利けない人の内にいた悪霊を追い出しました。

ですからそこにいた律法学者やファリサイ派はイエス様が神であるということを否定したくても出来ないですよね。

それで彼らはどうしたかと思いますか?

なんとイエス様は悪霊の頭なのだと言い出したのです!

だからその力で子分たちを追い出したのだと言い出したのです!

そこまでして彼らはイエス様が神であるということを認めたくなかったのです。

これが聖書に書かれている聖霊を汚す罪です。

その結果、イエス様の宣教はユダヤ人から異邦人へと移行するようになったのです。

  

   
さてこのようにユダヤ人たちはイエス様が神であるということを否定し、悪霊の頭、つまりサタン呼ばわりしたのですから、彼らの罪に対して弁解の余地はありませんよね。

早い話が自業自得です!

  

  
では私たちはどうでしょう?

今日、神様は私たちに聖書を通してご自身や御心についてを語られています。

問題はそれに対してどう応答するかです。

この世の魅惑に負けて、「これぐらいのことは・・・」とか「人間弱いから・・・」と理由付けをして、誘惑に身をゆだね、主のみことばを心から外に出したなら、それは罪の始まりです。

で、サタンのあま~~~~~いささやきに従って行動したら、それは罪の結果ですね。

これ、主を私たちの内から追い出す行為ですよね。

ですからこそ、イエス様と一つに結び合わされている必要があるのです。

そして日々みことばを味わい、イエス様と愛の関係を深めることです。

そうすることが一番の防衛策なのです!

  

  
イエス様は続けて言われました、

わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。

だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。

だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。

しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。(23-25)

  

   
イエス様を憎む人は、イエス様だけではなく父なる神様をも憎んでいます。

どうしてでしょう?

それはイエス様の内に父なる神様がおられ、父なる神様の内にイエス様がおられるからです。

イエス様と父なる神様は一つに結び合わされて、もはや解け合っている状態です。

ですからイエス様を憎むということはイエス様の内におられる父なる神様を自動的に憎んでいるのです。

そしてイエス様を憎んでいる人の多くはこれと言って理由はありません。

戦争とかクリスチャン個人とかが理由というのはあるでしょう。

でもそれはあくまでも個人であるし、その人はイエス様と一つにされていない場合が多いです。

そういう人にどれだけイエス様の十字架の愛を語ってもイエス様は関係ないし嫌いだとなるでしょう。

人の心を変えるのは人の説得ではなく、御霊によるからです。

  

  
さて続けてイエス様は言われました、

わたしが父のもとからあなたがたを遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。

あなたがたも、始めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。(26-27)

  

   
このみことばの成就が今日の時代なのです。

イエス様が十字架にかかられたことにより、私たちを弁護する史上最強の弁護士であられる聖霊様が私たちの内に送られているのです。

このお方がイエス様についてを私たちに語ってくださるのです。

その語られていることに対して応答するのは私たちの責任です。

そしてその語られていることを私たちも周りの人たちに証しをするのです。

聖霊は弁護者なるお方です。

サタンは日々私たちに責めの言葉を投げかけてきます。

でもその時、聖霊はイエス様について証しするという形で私たちを弁護してくださいます。

  

   
今、聖霊が私たちにイエス様の愛の深さ、広さ、高さ、長さを余すことなく教えてくださろうとしています。

しかし問題は私たちがその聖霊の語りかけに対して心を開いているかどうかです。

世の中に負けてしまう多くは、この聖霊の語りかけに対してないがしろにし、心を開いて受け取っていないことによります。

今日主は聖霊を通して私たちにご自身についてを語ろうとされています。

あなたは心を開いていますか?

でも聖霊の語りかけとか言われても感情ではピンと来ないかもしれませんね。

しかし、感情によらず、信仰によって私たちが心を開き、みことばを味わい、イエス様と語り合う時、聖霊は私たちの内側から優しく語りかけてくださいます。    

さあ、今聖霊の語りかけに心開きませんか?   

祝福を祈ります。キリストの愛を込めて。。。。

 

 

   
  

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2008年6月21日 (土)

この世 vs 神の国

こんにちは~happy01

今日もスィーツな聖書のみことばをご一緒に味わい楽しみましょうheart04

今日の聖書箇所はヨハネによる福音書15章13章18 -21節ですshine

  

  
「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。

あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。

だが、あなたがたは世に属していない。

わたしがあなたがたを世から選び出した。

だから、世はあなたがたを憎むのである。

『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。

人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。

わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。

しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。

わたしをお遣わしになった方を知らないからである。

  

  
前回のお話し、覚えておられますでしょうか。

イエス様は弟子たちに対し、そして今日の私たちに対しても「もう僕とは呼ばない、これからは友と呼ぶ」と約束なさいましたね。

イエス様はぶどうの木、私たちはその枝です。

しかしこの枝、もともとは野生の枝であり、命がなく枯れ枝だったのが、それをイエス様というぶどうの木に接ぎ木され、枯れ枝に命が吹き込まれ、根から豊かな養分を受け、イエス様のぶどうの木の一部となったのです。

このようにイエス様と一つにされた私たちを、イエス様は友と呼んでくださっているのです。

これが前回学んだ内容ですね。

  

  
今回はその続きです。

ではイエス様と結ばれている私たちがこの世で生きる時、どのようなことが起こるのでしょう。

今日、クリスチャンとして世の中で生きる時、クリスチャンであるということで、時に戦いがあります。

イエス様はそのことを既にご存じであられ、私たちに対して励ましてくださっているのです。

ぜひ主に心開き、期待して味わっていただければと思います。

  

  
イエス様は言われました、

世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。(18)

  

  
この世はクリスチャンに対して必ずしも寛大ではありません。

時にクリスチャンであることで戦いとなることがあります。

一番わかりやすいのがお葬式です。

仏式のお葬式に出ること自体は別に問題はありません。

その中でお焼香をしないと多くの場合攻撃を受けます。

お焼香というのは死者に対して礼拝する行為です。

お葬式でのお焼香は礼拝そのものです。

聖書は明確に神様に対して以外で香を焚いて礼拝することを禁じています。

私は大学の時に祖母を亡くしましたが、その時にお焼香のことを思い巡らし、聖書を読んでいる中で、これは死者を礼拝する偶像礼拝行為だとわかったのです。

当時教会学校で子供に聖書を教えていて、その前の週に偶像礼拝は罪だということを
教えました。

そして祖母の葬式を前にして、もし僕がお焼香をやったら子供たちに対して偽り者になる、それ以上に神様を悲しませることだと強く感じたのです。

そして両親にお焼香はしないと言いました。

すると突然悲しい顔をされ、生前どんなに祖母が私を可愛がってくれたかということ、そしてその恩を仇で返すのかというようなことを言われました。

その時この18節のみことばを思い出しました。

そしてイエス様も同じように苦しまれたのだと思い、心の深い部分でお焼香をしないことに対して平安を得たのです。

これは未信者の家庭の中にいると多かれ少なかれ通らざるを得ないことです。

それ以外にもクリスチャンであることでこの世での戦いがあります。

イエス様はそういうことを全てご存じで、私たちが苦しむ前にイエス様が人々に憎まれ苦しまれた、だから安心しなさいと励まされているのです。

  

  
続けてイエス様は言われました、

あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。

だが、あなたがたは世に属していない。

わたしがあなたがを世から選び出した。

だから、世はあなたがたを憎むのである。 (19)

  

  
私たちは「この世」か「真の神様」かのどちらかにつきます。

両方は出来ません。

もちろんそれは世捨て人になって仙人のような生き方をするということではありません。

私たちはこの地に生かされているのは、神様が私たちに対してご計画を持たれていて、そのためにあるからです。

ここで言っているのはどちらに対して心を開くかということです。

  

  
この世はサタンの王国です。

サタンが支配し、人々は神様に対して心を閉じ、無意識にサタンに従って生きています。私たちがイエス様と一つに結び合わされていけばいく程、この世に対して妥協出来ないことが出てきます。

それは主が私たちをこの世から選び出して、神の国の住人としてくださったからです。

その結果、人々はある時突善意クリスチャンに対して批判的となったり攻撃的になったりするのです。

それは私たちがこの世の者ではなく、神の国の者だからです。

  

  
イエス様は続けておっしゃっています。

『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。

人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。

わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉を守るだろう。

しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。

わたしをお遣わしになった方を知らないからである。」(20-21)

  

  
イエス様と私たちは一つに結ばれています。

だから人々がイエス様を嫌うなら私たちをも嫌うのです。

それはある意味しょうがないのです。

私たちはこの世に属しているのではなく、神の国に属しているからです。

問題はこの世の中でどう生きるかです。

  

  
主は言われました、

誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。

心は燃えても、肉体は弱い。(マルコ14:38)

  

  
そしてペテロの手紙一 5章8~9節前半でペテロはこう言っています、

身を慎んで目を覚ましていなさい。

あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。

信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい(1ペテロ5:8-9a)

  

  
今私たちはこの世と神の国、どちらに立っていますか。

悪魔はやっきになって私たちを再びこの世に連れ戻そうとしています。

私たちはしっかりと目を覚まし、イエス様と結び合わされ、イエス様の中にとどまっていることです。

イエス様と一つに結ばれていることが敵から身を守る最大の防御です。

お互いに身を慎んで目を覚ましていましょう!

祝福を祈ります。
キリストの愛を込めて。。。。

  

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2008年6月14日 (土)

☆私の親友イエス様☆

こんにちは~happy01

今日もスィーツな聖書のみことばをご一緒に味わい楽しみましょうheart04

今日の聖書箇所はヨハネによる福音書15章13 -17節ですshine

  

  

   
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。

僕は主人が何をしているか知らないからである。

わたしはあなたがたを友と呼ぶ。

父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

あなたがたがわたしを選んだのではない。

わたしがあなたがたを選んだ。

あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

互いに愛し合いなさい。

これがわたしの命令である。

  

  

   
前回の最後でイエス様は

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。

これがわたしの掟である(12)。

とおっしゃいました。

今日はその続きです。

私たちが互いに愛し合うとはどういうことなのかということをイエス様はお語りになられています。

ご一緒にイエス様のおことばに耳を傾けましょう!

  

  
イエス様は言われました、

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(13)

  

  
友のために自分の命を捨てる愛、口で言うのは簡単ですね。

でもどうでしょう?

果たして友のために命を捨てる、つまり友のために死ぬことは出来ますか。

これは究極の愛です。

これ以上の愛はありません。

このような形で愛された人は本当に幸せですね。

実はこの方こそ、私たちの主イエス・キリストなのです。

イエス様はこの後、ユダヤ人に捕らえられ、十字架にかかられます。

これは全て私たちの罪の贖いとなられるためです。

イエス様は私たちの罪が赦されるため、取り除くために、天のお父様への犠牲のささげものとなられたのです。

そして実際に十字架にかかられたのです。

私たちの罪そのものとなられて。そしてそこで流されたご自身の血潮により、私たちの罪は赦され、綺麗に洗い清められたのです。

まさに「友のために自分の命を捨てる」ということを実行なさったお方、そのお方こそ私たちの主イエス・キリストなのです。

  

  
ではイエス様のおっしゃった友とはだれでしょう?

そこにいた弟子たちであり、私たち一人一人なのです。

イエス様は続けて言われました、

わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

もはや、わたしはあなたがたを僕と呼ばない。

僕は主人が何をしているか知らないからである。

わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。(14-15)

  

   
イエス様はご自身の命じることを行うように、そうしたらもはやわたしの友だとおっしゃいました。

イエス様が命じたこと、それは互いに愛し合うということです。

前回このことをお話ししましたね。

覚えていらっしゃいますか?
  
私たちの内にはイエス様がおられます。

お互いにお互いの内におられるイエス様を見出すこと、そしてお互いの内におられるイエス様の愛を流し合うこと、イエス様の愛で愛し合うことです。

私たちの内には残念ながら良いものは一つもありません。

エレミヤ書17章9節にはこのように書かれています。 
   
   
人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。

誰がそれを知りえようか。(エレミヤ17:9)

これが私たちの内面です。

多くの人はこの私たちの内にある愛や何かを期待し、それを求めます。

だから不満がでたり、関係が拗れたりするのです。

相手の何かへの期待度が高ければ高いほどそうなります。

  

   
私たちがイエス様の命令、つまり私たちが内におられるイエス様の愛でお互いを愛し合う時、イエス様は私たちの友となってくださいます。

僕と友とは大きな違いがあります。

僕は主人が何をしているかを知りません。

ただ主人の命令に従い、主人を喜ばせるだけです。

しかし友は違います。

ましてイエス様の友です。

イエス様は父なる神様から聞いたこと、ご自身の御思いをすべて私たちに分かち合ってくださるのです。

逆に私たちの不安や恐れ、心配事も全部イエス様に分かち合うのです。

するとイエス様ご自身が心配してくださいます。

それが友です。

イエス様は私たちの親友なのです。

私たちは決して惨めな存在ではありません。

負け組でもありません。

圧倒的な大勝ち組なのです。

私たちの親友であるイエス様が味方なのですから!

  

   
続けてイエス様は言われました。

あなたがたがわたしを選んだのではない。

わたしがあなたがたを選んだ。

あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。(16-17)

  

  
イエス様は私たちの親友です。

でも私たちがイエス様にお友だちになってくださいとお願いしたのでも選んだのでもありません。

どういう理由かはわかりません。

イエス様ご自身が私たちを選んでくださったのです。

私たちが母の胎にいる前からです。

一つ言える理由は私たちを愛していてくださるからです。

私たちのために死んでくださる愛でです。

私たちはそこまで愛されているのです。

私たちには選んでいただく理由は何一つありません。

あのアダムから代々引き継いできた罪人です。

生まれながらの罪人です。

そんな私たちを命がけの愛で本気で愛してくださって選んでくださったのです。

嬉しくないですか!

  

  
そして私たちを任命してくださいました。

それはイエス様というぶどうの木の枝である私たちから甘くみずみずしい実、甘いぶどうの香りで満ちた最高の実が出来るようにとです。

その最高の実を私たちの周りの人たちに与えるのです。

私たちの親友イエス様はその私たちを助け、イエス様の名前で天のお父様にお願いするものはすべて与えてくださいます。

さあ、今お互いに私たちの内におられるイエス様の愛で愛し合いましょう。

そしてうちにおられるイエス様を愛を周りの人たちに流し出しましょう。

その時、この殺伐とし暗い時代に愛の光が降り注ぎます!

祝福を祈ります。キリストの愛を込めて。。。

  

  
[みのみのより]

今日のスィーツバイブル、いかがでしたでしょうか。

イエス様は私たちの親友です。

イエス様は私たちのために死んでくださいました。

この愛で私たちを今この瞬間も愛してくださり、私たちの内側からその愛を流し出してくだ
っています。

しかしそれを塞いでいるものがあるなら、それをぜひ取り除いてください。

そしてイエス様と一つに結び合わされ、イエス様との関係を深めましょう。

あなたを通してイエス様の最高の愛の実が溢れます。

祝福を祈ります。

ではではconfidentpaper
  

  

  

  

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2008年6月 7日 (土)

イエス様の愛にとどまろう♪

こんにちは~happy01

今日もスィーツな聖書のみことばをご一緒に味わい楽しみましょうheart04

今日の聖書箇所はヨハネによる福音書15章9 -12節ですshine

  

  

  
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。

わたしの愛にとどまりなさい。

わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、わなたがたの喜びが満たされるためである。

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。

これがわたしの掟である。

  

  

  
前回までのお話し、覚えていますか?天のお父様とイエス様、そして私たちとの関係についてぶどう園のぶどうの木を例にお話しをなさいました。

天のお父様が農夫、イエス様がぶどうの木、そして私たちはそのぶどうの木の枝です。

そして枝である私たちから豊かなぶどうの実がなるのです。

これが天のお父様とイエス様と私たちキリストにより救い出されたクリスチャンの関係です。

ではその関係とはどのような関係なのでしょう?

今日と来週とでそのことをご一緒に学ぶこととします。

  

  
イエス様は言われました、

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。

わたしの愛にとどまりなさい。(9)

   

   
イエス様はご自身の愛にとどまるようにと言われました。

その愛とは非常に深く、恵みに満ちた愛です。

その愛は天のお父様との親子の愛なのです。

イエス様はこの地に人として来られました。

その生活の一瞬一瞬、天のお父様と絶えず交わりを持たれ、天のお父様とイエス様は一つに結び合わされておられました。

お互いにお互いの愛が流れ合っていたのです。

そして一つに結び合わされ、その愛の関係の中で、天のお父様の御心を聞き、それに忠
実に従われた歩みがイエス様の人としての地上生涯だったのです。

イエス様はここで、この濃厚な天のお父様とご自身の愛で弟子たちを愛してこられたと言われているのです。

そして今日、私たちに対しても同じように語られているのです。

  

  
イエス様はこの天のお父様との親子関係の濃密な愛を私たちに絶えず流し続けてくださっているのです。

クリスチャンはそういう存在なのです。

私たちは惨めな存在ではありません。

惨めな救われた罪人でも決してありません。

それらはサタンの偽りの声です。

私たちはイエス様が十字架で流された血によって完全に罪赦され、古いアダム以来続いて来た血統もイエス様の十字架と共に死んで処分されたのです。

アダムから受け継いできた罪人の血統は私たちが信じ受け入れた瞬間に処理され、それまでのアダムのDNAを受け継いできた私たちは、キリストの十字架と一つにされ死んだのです。

私たち自身は確かにイエス様が十字架にかかられた時生存していません。

しかし私たちの遺伝子というか、私たちの種は罪そのものとなられたイエス様の内にいたのです。

だからイエス様が十字架にかかられた時、私たちもかかりました。

そして死なれた時、私たちも死んだのです。

そして今、イエス様の復活と共に私たちも復活したのです。

今日、イエス様の命が私たちの内にあり、イエス様の命で生かされているのです。

これについてはまた後日、きちんとご説明しますね。

  

   
さて、だからクリスチャンは決して赦された罪人ではありません。

私たちはアダムの血統からキリストの血統へと移されたのです。

イエス様の内には罪が全くありません。  

私たちクリスチャンの中にはそのDNAがあるのです。

しかし日常生活の中で罪を犯すことがありますね。

その度に血潮で洗うのです。

それが13章で学んだ足を洗い合うことです。

私たちはこの恵みを単純にイエス様を信じ受け入れただけで丸ごといただき、しかも天のお父様とのだれも入り込む隙もない愛で絶えず愛されているのです。

クリスチャンとはそういう存在なのです。

サタンの嘘に騙されないでください。

あなたは愛されているのです。

  

  
そして私たちもまたこの愛の中に入るのです。

それはイエス様といつも一つに結ばれることです。

絶えずイエス様に対して心を開き、その愛を受け続けるのです。

そして聖書のみことばを通してイエス様を味わい、「イエス様」と語りかけるのです。

必ず御霊がイエス様の思いを教えてくださいます。

  

  

さて続けてイエス様は言われました。

わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。(10)

  

  
覚えておられますか。

13章でイエス様は新しい掟を言われました。

互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(13:34)

  

  
イエス様ご自身がこの愛の関係を天のお父様と持たれていました。

そのように兄弟姉妹の間でもそのように愛するのです。

しかしここで多くの人は一生懸命に相手を愛するように努力をしてしまいます。

しかし私たちの内にある愛は人間の愛であり、キリストの愛ではありません。

私たちがイエス様の愛にとどまり、イエス様との愛の関係が深くなるに従い、その愛で周りの人たちに、その愛を流し出すのです。

コップの中に水を入れてそのコップの容量を越えると水が外に溢れ出ますね。

そのように私たちという器から流れ出る主の愛で相手を愛するのです。

そしてお互いの内におられるイエス様を見出し、その人の内におられるイエス様の愛を
お互いに流し合い、触れ合うのです。

その時、お互いの内なる霊がその愛を感じ合うのです。

互いに愛し合いなさいとはそういうことなのです。

だから頑張って愛そうと努力するのではなく、単純にイエス様を愛し、イエス様との関係が満ち、一つとされるに従って、その関係の中で受けるイエス様の愛を注ぎ合うことなのです。

私たちが努力しなくても、御霊が相手の方に流れ出ていきます。

私たちのすることは主の愛にとどまり、主と一つに結び合わされていくことなのです。

  

  
イエス様は言われました、

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。

これがわたしの掟である。(11-12)

    

  
私たちがイエス様の愛にとどまりイエス様と愛の交わりを深めていくこと、聖書のみことばを通してイエス様を味わうこと、賛美を通して主を崇め礼拝すること、そうやってイエス様と一つに結び合わされていくこと、それらは全て私たちが内側から喜び楽しむためなのです。

この楽しみは世が提供してくれる喜びではありません。

内なる霊が喜び、それがお腹の奥底から溢れ流れていく喜びなのです。

私たちはイエス様を喜び楽しむためにこの地におかれているのです。

その喜びを、愛を兄弟姉妹通しで流し合い、見出し合うのです。

夫婦もそうです。

恋人通しもそうです。

それをしないで相手の愛を求めるから上手くいかないのです。

主は言われました、

互いに愛し合いなさい。

  
  
今主を喜んでいますか?

主を楽しんでいますか?

主は今、ご自身の愛を注ごうと待っておられます。

それに対してまず心を開きませんか?

祝福を祈ります。
キリストの愛を込めて。。。。

  

ではではconfidentpaper  

  

  

  

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2008年5月31日 (土)

☆ぶどうの木に接ぎ木された私たち☆

こんにちは~happy01

今日もスィーツな聖書のみことばをご一緒に味わい楽しみましょうheart04

今日の聖書箇所はヨハネによる福音書15章6 -8節ですshine

  

   
  

わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れ
る。

そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。

そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによってわたしの父は栄光をお受けになる。

  

  

前回、イエス様はぶどう園の働きの例えを話され、天のお父様がぶどう園の農夫であり、イエス様はぶどうの木であるとおっしゃられました。

そしてイエス様であるぶどうの木の枝が私たちであると、このぶどう園の農夫とぶどうの木と枝のたとえから天のお父様、イエス様、そして私たちの関係についてを話されました。

そしてイエス様はぶどうに木であるご自身にしっかりとつながっているようにとそこにいた弟子たちに、そして私たちに命じられました。

ではつながらない枝はどうなるのでしょう。

イエス様はおっしゃられました。

わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。

そして、集められ、火に投げ捨てられて枯れる。(6)

  

  
ぶどうの木に甘くて美味しいぶどうの実を実らせるためには、剪定という作業が必要になります。

貧弱な枝やぶどうの実を実らせない枝を切り取る作業です。

そうしないと栄養が不必要な枝に行ってしまい、本来美味しい実が実る枝に栄養が行き渡らないからです。

そのようにイエス様につながらない人、つまりイエス様を生きている間に受け入れない人の最後は剪定されて捨てられるように外に投げ捨てられて、枯れ、そして集められ、火に投げ捨てられて枯れるのです。

厳粛です。

天のお父様が剪定を喜んでは決してなさいません。

涙を流し苦しみながらの作業です。

私たちが十字架の福音を語ること、キリストに結びつくように導くこと、これは非常に重要なことであり、主は私たちに力を与えて託されているのです。

  

   
さて、今日はぶどうの枝であるイエス様につながるとはどういうことなのかということをご一緒に学びます。

イエス様は言われました。

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるなら
ば、望むものを何でも願いなさい。

そうすればかなえられる。(7)

  

  
イエス様はここで「何でも遠慮無く求め願いなさい。そうしたら叶えてあげる」とおっしゃられました。

でもそこには条件があります。

それは私たちがイエス様とつながっていること、そしてイエス様のおことばが私たちの内に
いつもあることです。

私たちが心を開き、私たちの内におられるイエス様と一つに結び合わされて一つとなる時、内なる御霊がイエス様についての真理の扉を一つ一つ開いてくださいます。

そして聖書を開き味わう時、主がみことばを通して直接に私たちに語ってくださいます。

このみことばを毎日味わい蓄えるのです。

すると自動的に主の御心がわかってきます。

そして祈り求める内容も主の御心と一つとされていくのです。

最初から主の御心と一つの内容ではないかもしれません。

時に御心から外れた内容かもしれません。

しかし主はそんな私たちを訓練してくださり、少しずつ造り替え、ある時から主の御心を聞き、そして願い求めるように変えられていきます。

  

  
さてイエス様は続いて言われました。

あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによってわたしの父を栄光をお受けになる。(8)

  

  
ぶどうの木であるイエス様に私たちがしっかりとつながっていること、そして私たちがイエス様の弟子となること、そうすることで自動的にイエス様の枝に接ぎ木された私たちがしっかりとつき、イエス様ご自身から栄養が流れてきて、そして豊かな甘いみずみずしいぶどうの実がなるのです。

その実とはなんでしょう。

それはガラテヤ5:22に書かれています。

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。

  

  
これらの実は単独のものではなく、全てがイエス様の中にあるものです。

私たちがイエス様というぶどうの木にしっかりとつながる時、イエス様を通して自動的に枝である私たちにそれらの養分が流れ出てきて、私たちを通してそれらの実がなるのです。

  

  
これは努力や頑張りで喜んだり、寛容になったりすることではありません。

イエス様と一つに結び合わされた結果です。

私たちが日々イエス様を味わい、主のおことばを愛し、そのみことばを味わい蓄えること
で養分が流れ出て、甘いぶどうの実がなります。

イエス様と一つとされるってそういうことなのです。

本来雑種の枝切れであった私たち、その私たちがイエス様が十字架で流された血潮により、罪赦され、イエス様というぶどうの木に接ぎ木されました。

それが私たちクリスチャンです。

接ぎ木されても直ぐには木につきません。

時間がかかります。

私たちがイエス様と結び合わされるのも同じです。

イエス様を信じ受け入れて心を開いても直ぐには木の一部にはならないです。

まず天のお父様がイエス様というぶどうの木に接ぎ木します。

そして沢山の栄養を与え、時間をかけて手入れをします。

そしてある時に木と全く一つとされ、ぶどうの木の枝となり、イエス様の養分がドクドクと音を立ててぶどうの木の枝である私たちに流れてくるのです。

そして私たちからぶどうの実がなるのです。

これは大きな恵みであり奥義です。

  

  
今その奥義は開かれています。

今私たちはぶどうの木に接ぎ木されています。

しかし接ぎ木された枝は木と一つとなるために何の努力もしません。

木の一部とするのは枝ではなく、本体であるぶどうの木です。

枝はなんの努力もせず、ただぶどうの木から流れてくる栄養分を味わい満たされるのみです。

その栄養分を楽しむのです。

今日、ぶどうの木であるイエス様に身も心もおゆだねしませんか。

恐れる必要はありません。

自分の状態を見て落ち込む必要はありません。

私たちは接ぎ木されましたが、即座にイエス様の一部になるのではないのですから。

天のお父様が精魂込めて育て、イエス様が私たちをご自身と一つにしてくださるのですから。

このお方に身も心もおゆだねすればよいのです。

すると少しずつイエス様と結び合わされ、イエス様というぶどうの木と全く一つとされます。

祝福を祈ります。キリストの愛を込めて。。。

  

ではではconfidentpaper

  

  

  

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2008年5月24日 (土)

まことのぶどうの木

こんにちは~happy01

今日もスィーツな聖書のみことばをご一緒に味わい楽しみましょうheart04

今日の聖書箇所はヨハネによる福音書15章1 -5節ですshine

  

  
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。

わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。

しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。

わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。

わたしにつながっていなさい。

わたしもあなたがたにつながっている。

ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。

わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

  

  
今日学ぶヨハネ15章はイエス様と私たちの関係についてが書かれています。

まもなくイエス様は十字架に架かり、弟子たちと別れます。

それを前にして、残された弟子たちがどう歩むべきかを今回イエス様は語られたのです。

これはそこにいた弟子たちだけではなく、今日の私たちにとっても非常に重要なことなので、この15章、これから数週にわたってご一緒に味わうので、自分に語られているおことばとしてお互いに聴きましょう。

 

  
イエス様は言われました、わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。(1)

   
  

イエス様は本当の、そして唯一のぶどうの木であり、天のお父様は農夫だとここでおっしゃっているのです。

聖書の中に「ぶどうの木」という言葉が沢山あります。

ぶどうは祝福の象徴です。

ユダヤ人にとってぶどうは特別です。

しかしユダヤ人たちは主の期待に応えられず、悪質のぶどうになってしまいました。

そこでイエス様は、わたしこそが本物の、唯一まことのぶどうの木だとここで宣言されたのです。

イエス様がぶどうの木です。

そしてその木を育てるのは父なる神様です。

  

  
イエス様は続けて言われました。

わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。

しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。(2)

  

  
イエス様不思議な表現をされました。

イエス様につながっていながら実を結ばない人ってどういう人なのでしょう。

それはただ立場的につながっているだけとか、体はつながっているけど心はつながっていないとか、そういう人のことです。

イエス様を信じ、教会にも行かれている。

しかし日曜日以外の六日間はイエス様よりも世の中の方に心が注がれ、ある意味イエス様を外に出しているような生活をしていることです。

そういう人は残念ながら、イエス様につながってはいますが、イエス様よりも世の中の楽しみを大事にしているために、イエス様の栄養が行き渡りません。

そしてその結果、段々と主の喜びとか平安が失われていきます。

天のお父様が手入れをしたくても、出来ないのです。

しかし逆にイエス様を第一とし、世の中のことを楽しむ時もイエス様とつながっていてイエス様を喜ぶ人、どんな時にもイエス様に感謝している人は、天のお父様が豊かな実を結ぶように手入れをしてくださるのです。

私たちがイエス様につながるというのは、教会に行っているかどうかではありません。

洗礼を受けたかどうかでもありません。

聖書知識がどれだけあるかでも、毎日聖書を読んでいるかでもないです。

どれだけイエス様との関係が密なのかです。

  

  
イエス様は続けて言われました。

わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。

わたしにつながっていなさい。

わたしもあなたがたにつながっている。

ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。(3-4)

  

  
今日、私たちには聖書が与えられています。

聖書は100%誤りのない神様のおことばです。

このおことばを通して主は私たちに今も語っておられます。

みことばを通して語られる主のおことばにアーメンと応答する時、私たちは清いのです。

そしてイエス様に私たちがつながるには、日々聖書のみことばを味わい、みことばを通して主と交わることです。

その時、しっかりと主と結びつき、つながります。

それと同時にイエス様もまた私たちにつながってくださるのです。

  

  
イエス様は続けて言われました。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。

人がわたしにつがっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。

わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。(5)

  

  
イエス様はここで父なる神様、イエス様、そして私たちの三角関係についてをおっしゃっています。

天のお父様はぶどう園の農夫です。

その園のぶどうの木がイエス様、そしてイエス様のぶどうの木から生えている枝が私たちです。

そして枝である私たちがこのイエス様のぶどうの木につながっている時、同時にイエス様も枝である私たちにつながってくださる。

その時枝先まで栄養が行き届き、甘くてみずみずしいぶどうの実が出来るのです。

  

  

さて、このぶどうの木であるイエス様につながるためには私たちの努力や頑張りは一切必要ではありません。

私たちの肉の内には良いものは何一つ無いの