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2009年11月

2009年11月28日 (土)

恵みの下にいる喜び

こんにちは~happy01

今日もスィーツな聖書のみことばをご一緒に味わい楽しみましょうheart04

今日の聖書箇所はローマの信徒への手紙6章12-14節ですshine

従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。

また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。

かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。

なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。

あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。

  

前回、罪に対する死ということをご一緒に学びました。

11節では「このようにあなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」とありますが、私たちが罪から解放されるには、私たちの古い、罪そのものであった自分は、あの十字架のイエス様と一つに結ばれて、イエス様と共に死んだということ、そして今、復活のイエス様と結ばれて、イエス様によって生かされているということを考えること、知ること、認めることによります。

イエス様と共に古い自分は死んでいること、イエス様に結ばれ、今、復活のイエス様の命で生かされていること、これは事実です。

実際にそれはなされました。

しかし、私たちがそれを認めない限り、それが私たちの経験とならないのです。

私たちがそれを認めるとき、それが私たちの内で適用され、経験となるのです。

ですから私たちにとって必要なこと、それは日々それを知り、認め、十字架のイエス様の内にいる自分を見ることです。

さて、今日はこの罪から解放され、自由とされた私たちがこれからの生涯において、どのような生き方をすればよいのかをご一緒に学ぶこととしましょう。
  


☆★☆★☆

従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。

また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。

かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。(12-13)

☆★☆★☆

私たちの古い自分は死に、罪の奴隷状態から解放されました。

この次に私たちがする必要があるのは「献げる」ということです。

パウロは「五体を義のための道具として神に献げなさい」と言っています。

私たちは罪から完全に解放され、自由とされました。

しかし罪が消えて無くなったわけではありません。

罪はまだあります。

この世はサタンの支配下にあり、罪で満ちています。

私たちは確かに罪から自由にされました。

しかし再び罪の波に飲まれてしまい、罪の支配下に引き戻されてしまう可能性があるのです。

だからパウロはここで「神に献げなさい」と言っているのです。
  

この「献げる」という言葉ですが、原語であるギリシャ語では「並んで立つ」とか「近くに立つ」という意味があります。

私たちが罪の世界を愛し、そこに身を置く時、それは罪に身を委ねていることになります。

逆にイエス様と一つに結ばれて、内にいますイエス様の命に身を任せて歩む時、それがパウロがいう「神に献げる」ということになるのです。
  

私たちが再び罪に支配されないためにすること、それは何よりもこの「神に献げる」ということをすることです。

では具体的にどうすればよいのでしょう?

それは何よりも11節にあるとおり、「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きる」ということです。

つまりイエス様と一つに結ばれ、私たちの内にいますイエス様の命にお任せして、イエス
様に導いていただくことです。

自分の考えややり方、固定観念などを降ろして、御霊の導きに自分の思いを合わせるのです。

これが「神に献げる」ということです。
  

しかし私たちはこの世に住んでいる以上、罪の影響下にいます。

そして私たちはとても弱い存在です。

私たちがイエス様と結ばれて、イエス様の命で生かされ歩んでいる間はいいです。

しかし、私たちがもし罪の世界に心を開くと、再び罪の支配の中に入ってしまうこととなります。

ですから、罪を犯してしまう、躓きとなる場所に近づかないことです。

私たちはどんなに一生懸命に我慢しても、それに対する欲望は非常に強く、脳がそれをインプットしています。

ですからちょっとの刺激でそれに対する欲求が膨らんでくるのです。

そして我慢出来ず、再びその中に入ってしまいます。

それ程私たちは弱いのです。

決して「自分は大丈夫」と過信しないことです。
  


☆★☆★☆

なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。

あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。(14)

☆★☆★☆  

これがパウロが「罪に対して死んでいる」と言った結論です。

罪はもはや私たちを支配することはありません。

罪の支配下、つまり奴隷状態にあった「私」はイエス様と共に十字架で死んだのですから。

支配するルートは完全に断ち切られたのです。

しかし、罪自体は残念ながら、まだ消滅していません。

サタンもそうです。

サタンは私たちの弱さを通して誘惑し、攻撃してきます。

だから、私たちが弱いところに近づかないことです。

そして何より大切なこと、それは、私たちはもはや「律法の下ではなく、恵みの下にいる」ということを知ることです。

私たちは今、恵みの下にいるのです。

だから罪からも自由なのです。

そのことを日々味わい、感謝することです。

  
  
私たちは今、恵みの下にいます。

恵みとはイエス・キリストです。

イエス様は私たちの内に今おられます。

このお方と日々一つに結び合わされ、このお方の内に座り、安息するのです。

周りは時に嵐があるでしょう。

罪の誘惑もありましょう。

試練や艱難や痛い思いをすることもあるかもしれません。

しかし外がどんなに嵐であっても、私たちがイエス様の内に留まり、信頼し、イエス様の命にお任せする時、私たちの内に主の平和が溢れ、流れてきます。

私たちは今、罪の中ではなく、恵みの中にいるのです。

そう、私たちは自由なのです。

さあ、キリストの自由を味わい、満喫しようではありませんか、ハレルヤ。

祝福を祈ります。キリストの愛を込めて。。。

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2009年11月21日 (土)

罪からの真の解放

こんにちは~happy01

今日もスィーツな聖書のみことばをご一緒に味わい楽しみましょうheart04

今日の聖書箇所はローマの信徒への手紙6章6-11節ですshine

  

わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。

死んだ者は、罪から解放されています。

わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

そして死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。

死は、もはやキリストを支配しません。

キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。

このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

  

前回、バプテスマの中に、罪人である私たちがキリストと共に死んだということが現されているということについて学びました。

水のバプテスマはとても大切なことで、単に教会員になるための条件とか、クリスチャンと認められるための通過儀礼とかではありません。

バプテスマで水の中に沈められることを通して、罪そのものであった私たちが死にあず
かるのです。

さて、今回は、イエス様の十字架と私たちの関係についてご一緒に学ぶことにします。

    

  
☆★☆★☆★☆

わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。

死んだ者は、罪から解放されています。(6-7)

☆★☆★☆★☆

ここで再び、「知っています」とパウロは言っています。

私たちの古い自分、つまり、私であり、今この文章を読んでいるあなたがイエス様と共に十字架につけられたという事実をです。

私たちの罪は癒しがたく、どうすることも出来ません。

多くの人はその罪をどうにか処理しようとします。

ある方は自分を律し、厳しくします。

またある人は慈善活動などに勤しんだりします。

しかし残念ながら、罪は解決されません。

なぜなら、私たちの内に生まれながら所有しているからです。

そして罪に対する処分は死以外にないのです。

そんな私たちのために、イエス様は私たちの罪そのものとなられ、十字架で死なれたのです。

そして私たちもまた、イエス様と一つにされ十字架につけられたのです。

そしてイエス様と共に私たちも死にました。

その結果、もはや罪から解放されたのです。

    

多くの人はこの事実に対して、もがき、どうにかしてそれを自分に適用しようとします。

そして「まだ死ねていない」と落胆するのです。

しかし、これは、もがくことでも努力して得るものでもありません。

ただ信仰によって受け取るだけでいいのです。

努力は一切いりません。

単純にアーメンと受け取り、後は聖霊がそれを経験にしてくださいます。

その時、私たちの内面が自由にされ、喜びが満たされます。

私たちはもがかず、静かに内なる聖霊のなすことに同意し、お任せすればよいのです。

  
  
さて、6節で「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためである」と書いてあります。

この「罪に支配されたからだが滅ぼされ」という言葉ですが、これは原語では「無力となり」です。

つまり、罪に支配された私たちのからだは運営不能、無効力となったということです。

しかし罪そのものが消えて消滅したということではありません。

私たちの意思の同意が無い限り、罪の操作は不能だということなのです。

この世に生きている限り、罪の誘惑はあります。

しかしそれに対して心を開かない限り、罪はどうすることも出来ません。

私たちの古い自分はもう死んでいるからです。

問題は罪に対して同意するかどうかです。

私たちが罪を見つめている限りは、罪の誘惑の波に飲み込まれてしまうでしょう。

しかしそこから離れるとき、罪から守られます。

今、私たちに必要なこと、それは罪に対して意思を持って離れることです。

その時、もはや罪から自由にされるのです。

  
  

☆★☆★☆★☆    
  
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

そして、死者の中から復活させられたキリストは、もはや死ぬことがない、と知っています。

死はもはやキリストを支配しません。(8-9)

☆★☆★☆★☆  

私たちの古い自分は、イエス様と共に十字架で死にました。

しかし、私たちは死で終わりではありません。

イエス様が十字架で死なれ、3日後に復活されましたが、私たちもそうなのです。

イエス様と一つにされて十字架上で死んだのですから、イエス様と共に3日後に復活したのです。

復活されたイエス様はもはや死ぬことはないし、死はイエス様に完全に敗北し、もはや支配することは出来ません。

完全に勝利したのです。

私たちは今、全く新しくされ、この復活の命で生かされているのです。

しかし確かに死にます。

不老長寿の体となったのではないからです。

肉体はいずれ死に、土に帰ります。

しかし、私たちの霊は死にません。

肉体が死んだ後、天の御国で主を崇め、賛美するのです。

そしていずれこの地が滅び、新しい天と新しい地となります。

その時、私たちは再びそこに住み、主を崇める毎日、つまりあの罪を犯す前のエデンの園での主との愛に溢れた生活をするのです。

これは事実であり、天においては既に実現していることです。

それを知り、受け入れたとき、それが私たちの現実となり、経験となり、将来へと約束となるのです。なんと希望に満ちたことでしょうか、ハレルヤ!

  

☆★☆★☆★☆

キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。

このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。(10-11)

☆★☆★☆★☆

パウロは言っています、「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと『考えなさい』」と。

「考えなさい」と命令形で強い調子で言っています。

私たちの多くはいろいろな理由付けをし、「そうは言っても。。。」とこの事実を認めようとしません。

そして、その結果、罪を処分しようともがき苦しみ続けるのです。

パウロは「考えなさい」と言われました。

原語では「認めなさい」です。

これは会計用語で、貸借対照表の数字の勘定をすることです。

すなわち、事実を事実として認知して認めることなのです。

今、私たちは自由なのです。

古い自分はもう死んでいます。

あなたはそれを認めますか?

この事実を認めるとき、私たちの内側でそれが現実となるのです。

私たちは自由なのです。

もう罪の奴隷ではありません。

私たちは新しくされた存在なのです。

さあ、ご一緒にこの自由を楽しみ、満喫しましょう!

祝福を祈ります。キリストの愛を込めて。。。

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2009年11月14日 (土)

「知る」ことの大切さ

こんにちは~happy01

今日もスィーツな聖書のみことばをご一緒に味わい楽しみましょうheart04

今日の聖書箇所はローマの信徒への手紙6章3-5節ですshine

  

それともあなたがたは知らないのですか。

キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。

わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。

それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。

  

前回学んだとおり、私たちは今、罪に対して死んだ者です。

パウロは、私たちが罪に対して死んだことを洗礼(バプテスマ)を通して説明しています。今日はこの洗礼(バプテスマ)を通して、今の私たちの立場についてをご一緒に学び、味わうこととしましょう。

  

☆★☆★☆

それともどあなたがたは知らないのですか。

キリスト・イエスに結ばれるために洗礼(バプテスマ)を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼(バプテスマ)を受けたことを(3)

☆★☆★☆

パウロは、「私たちは罪に対して死んだ」という事実に対して、「知っています」という表現をしています。

この3節でも「知らないのですか」と言っていますね。

他にも6節、9節では「知っています」と言っています。

又、11節では「考えなさい」と言っていますね。

このように、私たちはイエス様にあって成された事実を知ることが大切なのです。

確かに私たちはキリストと共に十字架につきました。

そしてキリストと共に古い私は死にました。

私たちは罪に対して死んだのです。

しかし、これはまだ客観的な事実であり、それを知り、認め、受け入れた時、それが全て私たちのものとなるのです。

さて、パウロは洗礼について、「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼(バプテスマ)を受けた」と語っていますね。

5章で、アダムは来るべき方、つまりイエス様を前もって表す者だったということを学びました。

アダムが罪を犯して以来、私たちは罪を生まれながらに所有し、罪と死に支配されてきました。

しかしイエス様を信じ受け入れた時、私たちは神の恵みと命で満ちあふれるようになったのです。

このように、イエス様を信じ受け入れる前は、アダムの罪により、アダムを通して罪と死が
支配していましたが、今、イエス・キリストの十字架を受け入れた時、私たちはイエス様と結び合わされ、一つとされたのです。

ですからイエス様がなされたこと全てが、私たちにもなされたのです。

私たちの努力や頑張りによって罪の支配から解放されません。

それを全てイエス様がなされました。

私たちはイエス様と結び合わされ、一つとされたことにより、イエス様の勝利を丸ごと頂き、私たちのものとされたのです。

  
  
パウロは具体的に、その後で「その死にあずかるために洗礼(バプテスマ)を受けたことを。」と語っています。

イエス様は十字架上で死なれました。

その時、罪に塗れた、いえ、罪そのものである「私」もまたイエス様と共に十字架につき、死んだのです。

これまで私たちを苦しめ、支配してきた罪は、イエス様と共に十字架上で私たちが死んだとき、縁が切れたのです。

ですからもう罪は私たちを支配することは出来ないのです。

  
  
☆★☆★☆

わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。

それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

もし、わたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。(3-5)
  
☆★☆★☆  

罪人であった古い私は、イエス様と共に死にました。

しかしそれと同時にイエス様と共に葬られ、死にずかるものとなったのです。

水のバプテスマは単なる伝統や通過儀礼ではありません。

とても大切なことです。

私たちがバプテスマを受け、水の中に浸さますが、その水は墓場を現しています。

私たちが水の中に沈められるとき、古い私は死に、葬られたのです。

  
  
さて、イエス様が死なれて葬られたのは、復活をされるためでしたね。

同じように、私たちもまた、イエス様と共に復活し、新しい命に生きるために死んだのです。

私たちがバプテスマで水の中に沈められますが、それはイエス様と共に死んだことを現しています。

そして水から上がった時、イエス様と共に復活し、もはや新しい命、キリストの命で生かさ
れる存在となったことを現しているのです。

  
 
コリントの信徒への手紙二 5章17節にこういうみことばがあります。


だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。

古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

私たちは新しくされたのです。

「新しいものが生じた」のです。

イエス様を信じる前の延長線上にあるのではありません。

イエス様を信じる前の私たちはもう死んだのです。

死人をどうにかしようとしても、それは虚しい努力です。

科学がどれだけ進歩しても、死人に生を吹き込むことは不可能でしょう。

そのように、古い私たちはもう死んだのです。

ですからそれを改善する必要はないのです。

古い自分に見切りをつけて、新しい歩みをすればよいのです。

私たちは新しく創造された者なのです。

問題はそれを認めるかどうか、パウロの言葉を借りれば、それを知るかどうかです。

私たちがそれを認め、受け入れた時、それが丸ごと私たちの現実として経験するのです。
  
  

私たちは今、新しくされています。

新しい命、キリストの命で生かされているのです。

私たちの内にはイエス様が住んでおられます。

その命が脈々と流れているのです。

それを信じますか? 認めますか? 受け入れますか?

私たちがそれを認めた時、私たちはこの事実が私たちの内で表され、私たちの経験となるのです。

実はこれが信仰なのです。

  

さあ、信仰を持って一歩踏み出しましょう。

その時、キリストにある事実がすべて私たちのものとなり、それを日々の歩みの中で経験するのです。

状況は変わらないかもしれません。

突然バラ色に変わることもないでしょう。

余計に苦しくなることもあります。

しかし、それらは決して私たちを支配することが出来ません。

なぜなら、私たちの内にイエス様がおられ、イエス様の命により守られているからです。

どんな試練の中であっても、イエス様の命に身を委ね、平安な歩みをすることができま
す。

これがキリストの命で生きるライフスタイルです。

祝福を祈ります。
キリストの愛を込めて。。。

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2009年11月 8日 (日)

罪に対して死んだわたしたち

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今日の聖書箇所はローマの信徒への手紙6章1-2節ですshine

では、どういうことになるのか。

恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。

決してそうではない。

罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。

  

今日から6章を学んでいきます。

この6章のテーマは、「罪からの解放」です。

私たちはここまで「イエス・キリストを信じる信仰による義」ということについてを学んできました。

前回はイエス様が父なる神様の御心に対して従順に従われ、十字架にかかられたことにより、私たちが義とされ、恵みに満ちあふれるということを学びました。

今回の6章は、前回までの内容から一歩踏み込んで、私たちが罪の奴隷状態から解放さ
れるとはどういうことなのか、真の自由とは何なのかということについてをご一緒に学ぶこととします。
  

☆★☆★☆★☆

では、どういうことになるのか。

恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。(1)

☆★☆★☆★☆

パウロはここで、恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきかと問題を投げかけています。

これは5章20節の「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでした。しかし、罪が増しくたところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」と言いましたが、それを受けてのことです。

つまり、「イエス様の恵みが満ちあふれるために罪を犯し続けよう」ということを言い出すことが想定できるので、ここでパウロは問題を投げかけているのです。

答えは当然ノーです。

次の節を御覧ください。

☆★☆★☆★☆

決してそうではない。

罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に行き続けることができるでしょう。(2)

☆★☆★☆★☆

パウロは、激しい口調で「決してそうではない」と言っています。

つまりここでパウロは、そんな愚かな考えは捨て去ってしまいなさいと言っているのです。
  

パウロはここで「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」と言っています。

パウロは、私たちは「罪に対して死んでいる」と言っています。

これこそが6章のテーマである「罪からの解放」なのです。
  

この「罪に対して死んだ」ということ、これはもはや罪が私たちを支配することが出来ず、効力が失ったということです。

パウロはこの6章全体を通して、このことを説明しています。

私たちは罪に対して死にました。

それは将来の話、つまりこれから死ぬということではありません。

また、「今はまだ生きている、しかし危篤状態で体が徐々に冷たくなって死にかかっている」という状態でもありません。

パウロははっきりと過去形で「罪に対して死んでいる」と語っています。

つまりもう既に死んでいるのです。
  

しかし、私たちの多くは「罪に対する死」という言葉を聞くと、これから死ぬと理解し、一生懸命に死のうと努力します。

ある人は断食し、徹夜祈祷をし、「主よ、聖書に書いてある『罪に対する死』を体験したい
のです」と呻きます。

実はこれ、昔私が一生懸命に祈ったことでした。

しかし、祈っても祈っても「罪に対して死んだ」という実感もなく、結局は「死ぬことって難しいな」という結果でした。

  
  
この6章で、この「罪に対して死んだ」ということがどういうことかを学びますが、私たちは努力や頑張りで死ぬのではありません。

聖書が「罪に対して死んだ」と言っていることに同意し、受け取ることが大切なのです。

私たちは罪に対してどうにかしようとするものは何一つ持ち合わせていません。

どんなに断食しても、声を張り上げて祈っても、私たちの努力や意志の力によってはどうすることも出来ないのです。

私たちは諦めるしかないのです。

しかし、そんな私たちのためにイエス様が十字架にかかられました。

実はその時私たちの根本といいますか、種がイエス様の中にいて、イエス様と一緒に十字架にかかり、処罰を受けたのです。

私たちがイエス様の十字架の御業を信じ受け入れたとき、聖霊が罪に満ちた「私」が十字架上で処罰されて死んだことを現実としてくださるのです。

  
  
さて、私たちは罪に対して死んでいます。

ですからもう罪の中にとどまってはいけないし、罪に対して積極的に避けなければいけないのです。

これが私たちの責任です。

もし私たちが罪を軽く見て、「イエス様信じてるから大丈夫」って、罪を悲しむことも避けることもしないとき、サタンがその罪を使って、私たちを再び罪の世界へと引き戻そうとしてきます。

私たちは罪を軽く見ては絶対にいけません。

罪から積極的に裂け、そのような場に行かないこと、そのような人と関わらないことです。

「私は別」「私は大丈夫」、そういう人こそサタンの思う壺です。

罪を甘く見ないでください。

主はあなたを愛しておられます。

罪人である私はイエス様と共に十字架上で死んだのです。

今、決断しましょう。

罪の世界から離れるという決断です。

そしてイエス様の愛の中にとどまり、イエス様と愛の交わりをすることです。

イエス様は遠い世界におられるのではなく、私たちの内にいて、私たちの内から慰め励ましてくださいます。

このお方との愛の交わりを深めることです。

私たちがイエス様の愛にとどまればとどまるほど、私たちの内側が自由にされ、イエス様の平和が私たちの内に満ちていきます。

祝福を祈ります。キリストの愛を込めて。。。

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